論文を書くことの大切さ
株式会社システムクリエイツ
代表取締役 清水 吉男
・はじめに・
今回は、私にとって「論文を書くこと」あるいは「論文的思考」が、どれほど役に立ったかということについてお話しします。この論文的思考によって今の私が存在しているといっても過言ではありません。その有効性、そして重要性を分かっていただくために、まずは私の最初のつまずきと、そこで出会った「論語」と「大学」の文章からお話しします。
・失敗から始まった私のSE人生・
私の最初の3年間は、多くが失敗の状態でした。顧客の要求を捉えきれず、でき上がったものはあちこちで顧客の求めるものとは違うという状態でした。「新しい時代」に憧れてこの世界に入ったものの、現実の厳しさに挫け、「自分はこの仕事に向いていない」と啖呵を切って、一度はこの世界から離れました。
弁解がましくなりますが、当時は数人の仲間が集まって仕事を融通しあっていました。オフコンのようなものは一人でも対応できますが、コンピュータのメモリーが大きくなると、稼働日までに必要なシステムを開発するには何人かで手分けすることになります。仲間の中では「失敗」の状態は程度の差であって、私だけが失敗していたのではありません。それでも私の場合は、最初の「憧れ」が強すぎたのでしょうか。私としては「失敗」の状態を解決できないまま仕事を続けることができませんでした。私の「ソフトウェアの世界での第1歩」はこうして惨憺たるものでした。
・復帰のきっかけは「論語」と「大学」・
1年間まったく別の世界にいて、そこから戻るきっかけになったのは、半年程経った時に「論語」を読んで下記の記述を見つけたことでした。
弟子の冉求(ぜんきゅう)が
「子の道は説(よろこ)ばざるに非ざるなり。力足らざればなり」
(先生のお話しは大変ありがたいのですが、私にはとてもそこまでできません)
といったのに対して、孔子は、
「力足らざる者は、道中(みちなかば)にして廃す。汝は画(かぎ)れり」
(能力の無い者は、途中で倒れるもの。お前はやる前から「かぎって」いるだけだ)
もともと漢文は好きな領域でしたし、私たちの世代は「論語」は人生に迷ったときに読む本という認識を持っている人が多かったと思います(もちろん「儒教」というレッテルを貼って嫌う人も少なくないですが)。論語の中にこれを見つけたことで、自分は本当に「力足らざる者」なのか、を確かめるためにソフトウェアの世界に戻ることにしたのです。
そう、私は道半ばで倒れたわけではありません。まだ生きているのです。あのとき「自分にはこの仕事は向いていない」と啖呵を切って抜けただけだったのです。私の中に3年前の「憧れ」は消えていなかったのでしょう。
戻るにあたって日々の行動のガイドラインとしたのは「大学」の以下の節です。
格物 致知 誠意 正心 修身 斉家 治国 平天下
一般には「天下を平らげるにはまず自分の国を治め・・・」と後ろから解釈するのですが、ここでは簡単に前からの解釈を紹介しておきます。
物のあるべき姿をただし、知るべきことを極める。そうすれば誠意を貫けるし、心も正しく維持でき、自分の身を修めることができる。そこまでくれば、家がととのうし、国を治め、さらに天下を平らかにすることができる。
(ちなみに、斉家から平天下までが同時に達成するという解釈もあります)
私は、この最初の「格物 致知」を自分の置かれている状況に合わせて以下のように読み替えました。
「格物」すなわちソフトウェアの世界の有るべき姿を知って、「致知」すなわち、それに必要な知識や技術をすべて手に入れる。そうすれば、「誠意 正心」すなわち行動は誠に背かないし、お客さんに心正しく対応できる(ようになる)、と。
一度撤退した者としては、「大学」のこの1節を信じるしかない状態でした。当然ですが保証はありません。そのためにも、とにかく「格物 致知」ということで、すべての時間をそこに投入しました。
今の若い人たちの中には「大学」という本があることすら知らないかもしれませんね。でもここで出会った「格物 致知 誠意 正心」は、この後の私の人生に決定的な役割を果たすことになります。人生とはそういうものかも知れません。